開かれた医療に求められること

先日も脳神経外科領域で医療過誤の可能性を示唆する報道がなされました。
年間でみれば本当のことはわからなけれど何と多数の事故や過誤に関する報道がされることか。私の施設・部門でもこれまでもカルテの開示請求をお受けしたこともありました。その理由は紹介元や当院での医療情報が知りたいというものもありました。

医療には隠すものは何もなく、何時誰にカルテを見られることがあっても良いようにしておくことが大切だと後輩達には伝えています。
電子カルテになってからは、上書きしても必ず前の版が記録されるようになっていますから、改竄(かいざん)などしようがありません。
現実的には忙しさのあまり、記録を忘れていることも多いです。米国では遥か以前からレントゲンの所見などは、医師が読影しテープに録音すると、係がタイプで打って翌日には仕上がっていました。医師が患者に集中できるように、それを補佐するシステムが整備されていました。日本はといえば医療費を倹約するためにという訳ばかりではないのでしょうが、医師一人に権限や責任が集中していて、医師は一人何役もこなす特別な存在にされてしまいました。

現在は高度化した医療を一人でカバーすることはできなくなっていて、チームで診療することが大切になっています。こんな中で、患者さんのリスクへの意識も高まりや医師のライフスタイルへの価値観も変化し、病院勤務の生活に疲弊した医師は、次々と辞めているのが勤務医不足の最大の原因です。

多くの医師は患者さんの目線を忘れることなく診療をしたいと思っておりますが、結果は必ずしも一致しません。偶発的な合併症が起こることもあります。持病があったり、ご高齢な方では、潜在的なリスクもあります。

私も臨床を続ける気持ちがなくなってしまったこともありました。幸い大事には至らなくて、多くの人に不可抗力だといわれる場合でも、患者さんやご家族のことを思うと本当にやりきれない気持ちになったことも一度や二度ではありません。
私の家族が期待通りの成果が得られなかったり、マイナスな結果になったとしたら、医学的に判断しようとは努めますが、それでもさまざまな感情は禁じえないでしょう。そんな時、やむを得ないとわかったとしても、最後に相手を傷つける言葉を、ほんのひとかけらだけでも発してしまうかもしれない。

どうすればそんな時でも感情を超えて、わかりあうことができるのでしょうか?それはとても難しいことではあるとは思いますが、事実を客観的に捉える機会があることは最低限必要でしょう。標準的な医療に沿っていること、複数の専門家が相談して治療方針を決めており、その過程が知らされていること、その施設がその治療を行う経験や設備を有していること、などが必要なのだと思います。こうした過程がたどれる記録が残っていることも必要でしょう。


誰が悪かったわけではない、とわかることで、患者さん御本人を含め皆が救われるように思います。


急性期やがん診療を扱う病院では、実際の診療業務に加えて、こうしたコミュニケーションや記録などにかかる負担は10年前とは比較になりません。安全を確保し、医療崩壊を防ぎ、開かれた医療を実践するためには、勤務医とコメディカルなど人的資源の養成と確保、そのための予算が不可欠で、こうした分野での雇用の創出が今求められています。

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