ハートモニター

医者になって数年目の頃、患者さんの臨終に際して感じた違和感を今でも思い出します。
癌患者さんを担当し、当初は病気が良くなることを目指して患者さんと治療をしていましたが、ある時を境に治療は症状の緩和へと方向転換することになりました。家族も根気よく看病され、臨終が近づいたある日、病室に持ち込まれたハートモニターに映る心電図の波形に、家族、医療者が注目しているときに、ハッとしました。「一体自分は何をしているのだろう」、「この瞬間に何を待っているのだろう」と・・。それまでも何度となくそうした場面はありましたが、こうした一種の儀式の様な場面を経て人は死を迎え、残された者は死を受け容れていくのだと深く考えることなく受け止めていました。
死は、決して心臓が止まって、その電気的な活動を示すモニターが平坦になるからではなく、会社、地域、家族・・と、少しずつ生きている間の役割を終えてゆき、家族にとってはかつて自分を愛おしみ、ともに長い歴史を重ねてきた暖かい存在が変わってゆく、その過程なのだと思います。モニターを注視していた自分は、何か大きな取り違えをしていなかっただろうか、大切なものを儀式にすり替えてはいなかっただろうか。
この時期に及んでは、法律的、医学的な死の確認を除いて医者にできることは殆どなく、看護師によるケアが中心です。
モニターの役割は最後の心臓死の確認と記録だけで十分だと考え、できるだけ家族だけでそばにいていただくために、それ以後、離れたナースステーションで監視し、最後の最後に病室へと運びいれるようにしていますが、死を受け容れるのに時間的に余裕がある場合、病室にモニターを入れることは必ずしも必要ではないと感じています。
モニターではなく、家族に囲まれて、「ありがとう」、「お疲れさま」、「頑張ったね」、「あんなこともあったね」そんな言葉の中で最期を迎えていただくために、患者さんの苦痛をとること、心の準備を少しずつしていただくために、たとえ立ち話であってもこまめに様子をお話して状況を共有するようにしています。昔話をしながら、泣いたり、ときには笑ったりしながら、見送られることも経験します。こんな時は、亡くなられた患者さんとも、ご家族とも良い関係を共有できたなと実感します。
人間に、もし天寿というものがあったとしたら、それを無理に長引かせもせず、短くもせず・・、それが患者さんの尊厳を守ることなのではないかなと考えています。

にほんブログ村 病気ブログ ベーチェット病へ
にほんブログ村