2009年の初めに

昨年は医療崩壊が地方のみならず、都会でも明らかとなり、行政も医師養成へと大きく方向転換した年でした。
私が医学生であった1980年代は、古い医学と新しい医学の移行期でした。田中角栄元首相が、日本列島改造論や一県一医大を提唱し、漸次医大が作られました。1985,6年、最後に新設された国立医大から卒業生がでる頃には、医療界では医師過剰論が生まれ、医学部定員削減へと向かうことになります。
インターネットの普及により、医学生、医者、患者への情報開示が急速に拡がり、特に新臨床研修制度が実施されて、医師国家試験合格者は研修先の選択を、自分と病院の相互のマッチングで決められるようになりました。結果として医師の派遣を握る医局制度や医学博士の学位取得の呪縛は加速度的に薄くなりましたが、学位や医局制度などの古い仕組みが、十分とは言えないまでも人気のない地方に医者を残し、病院に医師を供給してきたことは皮肉な現実です。しかし、古いシステムが優れていた訳ではなく、情報量が少なく、地域や先輩後輩といった閉ざされた環境の中で成立していたシステムの基盤そのものが崩れるべき時期にきていたと言うことができます。臨床に従事する医師に必要な博士号とは何か、臨床系大学院の役割などに対する価値観も大きく変わりつつある中で、前時代的な環境で構築されたこのシステムに戻ることはもはやあり得ません。新しい時代へと向かう変革期の動揺と捉えることもできるかもしれません。
「へき地があれば自分が行こう」、「ベットが満床なら外来のベットでも対応しよう・・」、「自分は無休でも、患者さんが回復するなら・・」、以前はそんな個人の情熱が活かせる時代でした。今でも、こうした想いをもつ医師や医学生は少なくありません。社会が表面だけ成熟するにつれて医療に要求される水準も高くなり、それ以上に、現実とのギャップを埋められないまま医療に許容されるバラツキの範囲が狭くなってしまいました。形式的な規則や機能評価など直接患者さんに対応する以外の仕事が増えたことも、これを増幅させています。1000人に1人の頻度でも偶発症が起きた時に訴訟になるのでは・・、等の懸念から、個人の情熱だけではどうにもならず、設備・人にある程度余裕がなければ医療ができない(と考えるざるを得ない)状況を作り出してしまっています。
医療ができることとできないことを明確にすること、現場で求められている専門性の医師を、必要な数だけ養成する政策的な対応が必要です。また医師を医療に専念させるために、それ以外の仕事を代替してくれる医療専門職種を増やすことで、医師の必要数は抑えられ、より短期間で効果が得られると思います。
医療は少しずつ着実に進歩していますが、生命が逞しく、そして時に脆いものであることは、医療の発達する以前と何も変わりありません。限りある医療資源をどう使い、どのように医療と関わってゆくことが、患者と医療者にとって賢い方法なのか自問しています。